ナニが忙しいかといえば、ミッキーさんとこから引き上げてきたオビタダシイ物モノ物モノ物などの整理💦

思い出の品々が次から次に出てきて、座り込んで眺めるのもシバシバシバでバシバシバシと時間が過ぎるのです😅
例えば自分が撮った雑誌用のフォト・・







⬇️ボクが高校生のころ😆

キャメラが好きで好きで、大好きで・・でも親代わりの兄にキャメラを買わせるのはできなくてね・・だけど高校に写真部があるというので担当の先生に
「カメラ無いですけど写真部に入ってもよいですか?」
と聞き
「部にはキャメラがあるから大丈夫だよ」
と言われ、その時の嬉しさったら😍もう・・
その伊東先生は体育の先生で、写真撮影が大好きでクラスの担任でもあり、スカッとした性格で話しやすく、カメラをキャメラと正しく発音する人でした。そして、やがて伊東先生はボクの未来を明るくしてくれるのです。
一方、ボクは銃というモノが好きでした。銃がナニかとか種類さえも知らないのに鉄砲に対する本能的な憧れに衝き動かされ、時折は体温が上がるほどでした。そんなふうなので、月に一度はアメヤ横丁に行き、外国製の金属製玩具拳銃を手に取って撫でまくっていました。まだモデルガンという言葉もなかった時代です。
と、そんな折・・友人と阿佐ヶ谷商店街を歩いているとイキナリ変な服装をした若い男に
「オレにガンつけやがってどうゆーつもりだ・・オレは朝からシャリ食って無いんだがよー!!」
みたいに怒鳴られ、言葉の意味が判らず友人に通訳してもらって、突然起こったトラブルから解放されるには50円ずつ払えば済むというので支払って・・
だけどクヤシイ想いに耐えられず、交番に行って事情を話すと、警察官は心当たりがあるらしく現場に案内してくれと言い、そのチンピラを蹴倒し、いとも簡単にショッピーて行ったのです。強いことは素晴らしい事だと感銘を受けました。
しかし、ボクの心には残念な気持ちが渦巻いていました。そのチンピラの顔が目の前にあり、その顔を殴れば必ず当たるのに自分は50円を払う方を選んだ、この自分の弱さに耐えられないものがあったのです。そこで家に戻り、兄嫁さんに米袋を二つ出してもらい、それに土を入れて物干しに吊るして殴ってみました。しかし、どうもチンピラを倒せるほどのパンチは繰り出せないと感じ、すぐに本屋に行って「ボクシング入門」という本を買いました。この事からやがて日本拳法の道場に入るのです、が、一方、なぐり合うよりは拳銃でヤッツケルという作戦の方が楽だと考え、アメ横に行って、改造で空気銃の弾を発射できそうな玩具拳銃を買い、ブリキ缶を貫通させられる4連発リヴォルヴァを完成し携帯するようになりました。同時に手裏剣の練習も大いにやりました。
そんな中で、写真を撮るのはナニよりも嬉しいことで、しかも自分でフィルムを現像し、そのあとに引き伸ばし機で印画紙に焼き付けるといった作業は生き甲斐のようになっていたのです。写真雑誌のすべてを立ち読みしながら勉強をしていました。
そんな折、写真部の1人が皆んなで高校写真のコンテストに応募しようと発案し、部員達から作品を集め高校コースという月刊誌だったかに応募したのです。すると1年生で入部したばかりのボクの写真が掲載されたのです。それはラグビーでボウルの取り合いで幾人かが同時にジャンプしているシーンで、批評家は「三角構図が上手い」と書いていました。構図に名前があるなんてソコで初めて知りましたよ。そして、その後も応募するたびに入賞し賞品の万年筆を仲間達に配ったものです。その頃は、どうして自分の写真が他のよりも良いのか、その理由が判らず悩んでいました。つまり、良い作品と良くない作品との区別がボクはまったくできなく、ただナントナク撮っていただけだったのです。伊東先生は、そんなボクに作品ができたら必ず朝に職員室に持ってきて見せてくれと言い、ボクはオズオズと職員室に行き、先生は作品を机に並べ「上手いもんだなぁ・・」と眺めてくれていました。どれどれ、と他の先生方が観にくると「先生方に この良さは判らんですよ」と冗談を言って笑っていました。そして、ボクも写真の鑑賞力は持ち合わせていませんでした。
高1で始めた写真ですが、その前に中学時代のストーリーを語らないとスジが通りにくいのです・・
小学校は鹿児島で始まりましたが、食うに困る貧乏状態だったので、夫の暴力に耐えかねた姉が佐世保に逃げてダンサーとなって生活できるようになって両親とボクを佐世保に呼んでくれ、少学3年から卒業までは佐世保で暮らせることになりました。ダンスホールでアメリカの軍医をしているサリバン先生と恋に落ちた姉は彼を紹介してくれました。するとサリバン先生は大きな手を差し伸べながら何かを言いました。握手について無知だったボクは手を引っ込めて姉の後ろに隠れてしまったのですが、アメリカの大人が自分のようなガキに対して優しく対応してくれたことに驚きと喜びを感じていました。
当時の日本人は自分たちの生活で手一杯、ヨソの子供に暖かい目を向けることは無いに等しかったのです。
このサリバン先生がボクの最初に接したアメリカ人でしたが、実は鹿児島でアメリカ人に興味を持つ事件がありました。多分はボクは6歳あたりです。鹿児島に進駐軍がいることは大人たちの会話からナントナク知っていましたが家の周りしか知らないボクはアメちゃんと呼ばれる人々を見たことはありませんでした。そんな折、遊び仲間の子が昨日ジューリンシャが今ごろこの道を通ったから また来るかもしれんけん待っちょろう・・
と、いうので待ちました。それは見たことも無い大きなトラックでタイヤが10個も付いているのだそうで・・
期待しながら遊んでいると、遠くから砂塵を蹴立てながらトラックが近寄ってきました。それはホントに大きなトラックで圧倒されたワレワレは道の横に避難し見上げていました。その時速は30キロほど、そう速くはないので運転手や荷台に乗っている米軍人の顔がはっきりと見えました。それは漫画本の挿絵で見たようなアメちゃん達で、日本人との顔立ちの違いに感動しました。そして真横を通る時に荷台にいたアメちゃんがボクらに向かって大声で叫びました。なんだろうと想っていたら、通り過ぎるやいなやそのアメちゃんは大きなシャベルを振って何か光るモノを道にバラ巻きました。数人の子供達は駆け寄ります。
「氷やっど!!」
と、年長者が叫び、拾うとソレは冷たかった。初めて見る氷でした。子供達は競って拾い集めます。しかしボクは3個ほどのカケラを手のひらに乗せただけでトラックの方を見つめ、十輪車が角を曲がって見えなくなるまで見送っていました。
なんで氷を自分たちのために投げ下ろしてくれたのだろうか? そして手まで振ってくれたのだろう? 見知らぬ子供達に貴重そうな氷をスコップいっぱいもくれるなんて、その意図が理解できず意識がボンヤリとなって佇んでいたのです。
当時、見知っている大人といえば遊び仲間達の親達だけです。そんな大人達は、自分の子の友人との挨拶どころか視線すら合わせず、まったくの無視。なにしろ戦後の混乱の真っ只中なので自分たちが食べていくというサヴァイヴァル競争そのものでした。ひもじい中、よそのガキなんて見たくもないワケです。
衣食足り 初めて礼節を知る
この言葉に出会うのは高校に入ってからでしたが、この瞬間にすべてを理解できました。なるほど、日本兵が飢え死にしながら戦っていた頃、米軍には余りあるほどの食があり、チョコレートも食べ、チューインガムを噛みながら日本軍のウスノロなライフルに対し、多弾のフルオートで弾丸の雨を降らせながら圧倒して日本国を滅ぼしたのです。
その「氷事件」以来、ボクはアメリカ人に対する好意を感じていました。そしてサリバン先生のフレンドリーな態度と日本で販売されていなかったコカコーラやチョコレートをもらえて嬉しくて・・そんなことからボクのアメリカ移住は決まっていたのでしょう。
ちなみに、ボクが覚えた最初の日本語は「タイヒー!!」と叫びながら防空壕に走ること。空爆下での退避のことです。そして最初に覚えた英語は「テニエン」これはテンエン→10円のことです。佐世保には多くのアメリカ人がいて、ジープで走る軍人に向かってテニエンと叫ぶと10円玉をくれ、これでカバヤ キャラメルが買えるというわけ。
そして、小学校を佐世保で卒業する頃、住んでいる家が火事で焼けました。近くの子供がライターで遊んでいたらカーテンに火がつき36件もの家が焼けるという大火。父は「薩摩商店」という水飴や黒砂糖を売る店を失って、焼け跡で焼き芋を焼いて売りながら小銭を稼いでいましたが、故郷の鹿児島に戻ることを決心、ここから再び辛くて悲しい貧困生活が始まります。
貧しい者たちは、それぞれに多岐にわたる貧困を体験させられ、言われの無い差別に遭いますが、富める者達は一様に豊かで楽しいものです。なので、赤貧洗うが如しの中学時代では昼の弁当も持っていけなくて、水を飲んで過ごし、栄養失調で目眩に悩ませれながらの生活でした。これを書き出すとあまりにも長くなるのでハショリますが、ここでキャメラとの出会いがあったのです。
近所に住む年下の遊び仲間が何の話だったかでカメラを持っているというのです。
見せてよぉ!!
なぜか解らない、いまだに謎・・ボクはキャメラの事では興奮するのです。なのでワザワザ町に行ってウィンドウに飾られているキャメラを丹念に眺めるというクセもありました。こうして眺めているだけで鼓動は高まり明らかに体温の上がっているという自覚がありました。メシも食えない中学生がカメラを長いこと眺めており、元気になって戻ってゆく・・君は、こういう光景を想像できます?
今から想えば、もうこの時点でボクの行き着くところは神が許可のハンコを押していたのでしょう。
自分が成りたいという強い目標さえ持てば、あとは自動的に達成される・・そういうモノだと感じています。その強さとは、志を立てること。つまり命を掛けるということです。
今、外は雨、ストーヴで暖まりながら撮影しました、

この「スタートカメラ」が友人の持っていたモノと同型です。昔を忘れず今の自分の思い上がりを防ぐために入手したのです。
これを借りてフィルム1本撮影できることになりました。12枚とかそんな撮影枚数だったと想います。確か500円くらい。当時お年玉の相場が100円。5人からもらえれば買える金額、それでもボクには無理な額。
けど、フィルムと現像代くらいは母がくれました。両親ともに書画骨董の見識は高く、たまに掘り出し物を見つけては美術館に買ってもらえていたのです。多分、頼めばスタートカメラくらい買ってもらえるチャンスはありました。でも、家の窮状を知っているボクは決してネダリません。貧乏は子供に思慮を与えるようです。
ともあれ、撮影にあたって三日三晩考え続けました。まずは桜島を撮ろう。それを背景に貸してくれた友人を撮ろう。天保山の堤防も撮ろう。そして鴨池飛行場に行ってセスナの泊まっているのと飛んでいるのを撮るのだ!!
こうして2週間ほどかけて一枚ずつを極めて慎重に撮影していきました。露出調整もないカメラなのでシャッター押すだけ。簡単です。しかし習ったわけでもないのに構図をしっかりしようと、ソコに全力を傾けました。自分ができることは、構図をしっかりすること!!・・しかし構図とは どんなモノかも知りません。そしてイザ撮影しようとすると、例えば飛行機などはどの角度、どの高さから撮ればいいのか判らず、とても悩みました。写真を学ぶにも教科書はなく、教えてくれる人も居ず。構図とアングルに関する悩みは撮影前から中2のボクを苦しめていたのです。今から観れば、初めての撮影を前に悩み続けるのは才能と本気の現れなのですけどね・・
独自に学ぶしかないボクは、厚紙に四角な穴をカットし、それをいつも持って風景や人を見るようになりました。銃でいえばカラ撃ち、安上がりな勉強方法で、だんだんと好きな構図と不安定な構図などが理解できてきました。何だかソレナリに判った気がして、いよいよ撮影に取り掛かったのです。とても大きな冒険をしていると感じていました。
そして近所のDPE屋さんに行き、そこの感じの良い兄さん現像をお願いしました。まずはネガだけの現像。ブリントは高いのでネガだけを見ようと・・
現像はすぐに終わり、ネガを見ます。持ち帰って丹念に眺めると構図は想った通り。だけどネガなので、プリントを見たい・・小遣い銭をチェック、一枚だけならプリントできそう。天保山の堤防の曲線の向こうにある桜島をプリントしてもらいます。こうしてケチケチしながら小遣いをもらうたびにプリントを増やしました。
意を決して母に見せると・・
あら、上手だねぇ♪
構図に言うことないわ、イチローは才能あるよ・・
美術に眼が肥えている母の言葉は嬉しかったです。特に構図という言葉が出たので・・
やがて、遠足の時にゴジラというアダナのクラスメイトがリコーフレックスを持ってきました。

父親の二眼レフを借りてきたそうで、いよいよ本格的なキャメラとの出会いです。シャッタースピードと絞りの調整をしながら撮影するという手強い機械に惚れ惚れとなってしまいます。あとになって頼み込んで1週間借りることができ、その描写力には感激しました。スタートカメラとの歴然とした違いは、判っていたとはいえ凄まじいと感じました。
中二だったか、この時の担任は石堂先生という理科の担当で趣味が写真でした。理科室に行くとバットの中には引き伸ばしたばかりの写真が流水に浸されており先生の熱心ぶりが伝わってきます。この時のボクは水泳部と理科部とに入っており、理科の実験は石堂先生に習っていたのです、が、本当は写真の指導を受けたいと願って・・いたもののフィルムや印画紙などを買うチカラのない自分を恥じて言い出せないままでした。
中3になると、クラス編成があり就職組と進学組とに分けられ、親に相談することもなくボクは就職組に入りました。高校に行きたいなんて絶対に言えなく、もしも言ったとしたら貧乏な両親を悲しませることは容易に想像がつく年齢です。そして、ボクは写真の事をすっかり諦め、就職の事ばかりを考えながら月日がすぎていきます。進学組の生徒たちは、我々を何となく見下げており、近寄ってもこない中でボクは自分で働いて給料をもらえるという生活に心を躍らせるようになっていました。中学の先生たちは石堂先生と園田先生を除いては就職組を学校の恥だと感じているように感じていたのはイジケ子供の間違った直感なのでしょうか。園田先生という女性はパリで美術を学んできたと言われる人で、ボクの柿右衛門の絵を3段彫した彫刻を見てクラスでこう言いました。
「皆さん、この永田市郎くんを覚えておいてくださよ、この人は必ず世界で有名になる芸術家ですからね・・」
有名になるなんて、そんなこたわかるわけないよなぁ・・という仲間に対してボクはソーだよなぁと賛成していました。
そうこうするうちに卒業が近づいてきました。ボクは木工部に移ってノコギリやカンナの使い方を習っていたので家具を作る会社に就職したくなり名古屋の木工所に就職が決まっていました。住み込みで食事付きで月に三千円もらえるという契約。両親に1500円も仕送りすると飢えさせることもないし、残りは自分で写真に使えると密かに喜んでいました。
そんなある日に1通の手紙が・・
卒業前に上京するように、と勝男兄貴からの手紙です。兄の存在は知っていましたが、音信不通というか連絡などなく忘れていた存在です。ボクはすぐに返信します。
「ちょうど良かったボクはもう就職が決まっているので名古屋に行きます、ただ気がかりなのは両親なので引き取ってもらえたらすごく嬉しいです」
するとすぐに返信がきました。差出人は姉です。
「イチロー、姉ちゃんはあなたの手紙を読んで泣きました。あなたがそんなにしっかりしているとは知らず勝っちゃんと私は中学を卒業と同時に親子3人を東京に引き取る準備を前々からしており、すっかり用意ができていたのです。でもね、イチローの独立心は嬉しいけれど姉ちゃんのいう事を聞いて欲しいの。勝っちゃんはもう東京に出て医者になっているからお金の心配もいらないので、ここから高校に通いなさい・・・」
と、そういった内容が便箋6枚を使って書かれていました。でも・・と、ボクは切り替えができずにいると父が、
これで高校に行けるな・・
そして卒業1ヶ月前・・
ボクは教室で先生の横に立っていました。
「えー、皆さん、この永田くんは東京の高校に入ることになりましたので、卒業式を待たず出発します・・」
クラスメイトは、とくに女生徒たちは目ん玉をおっ開いていました。ボクのことを臭いからアッチ行けと言ったオンナたちも羨望の眼で。
これで仕返しできたな、とボクは想いながら皆を見渡していました。
東京に引っ越し!!、、当時の鹿児島だと火星の大都市に移ってアラビア人のように豊かな生活ができるみたいなインパクトがありました。
ラジオから流れるフランク永井の歌、アナターとワタシの合言葉ぁ〜有楽町で会いましょぉ〜🎵
あの国に行けるのです!!
運命がデングリ返って、ボクたち3人は東京に向かったのです。東京に住めばきっとカメラを買えるな・・そう想うボクのポッケには送金されてきた中からもらった三千円以上が入っていました。見たこともない大金で心が強くなるのを列車の中で感じていました。
ここんところは、いつか加筆したいです。
二千二十五年 三月六日
春だとゐうのに雪が降り候。

色の白いは七難隠す
色白で顔立ちの良い娘は 貧困家庭に産まれても 世間に出たら金持ちの男たちに好かれて良い暮らしができるようになる。
イチロー的な解釈
我が愛しきシコメの
Love forも
雪化粧をしたならば
いと見栄え佳くなりにけり😄
こうして上京し、兄が勧める高校で受験をしました。それが堀越高校だったワケです。鹿児島での成績は中くらいだったのですが受験勉強は皆無だったので不安でした。しかし聞くところによるとホリコシはバカでも入れる劣等高校なんだそう。でもボクは図工と音楽と国語以外の科目はキライ・・というか自分の人生とは無関係だと感じていたのでホリコシの評判が良くないのは学業を強いられなさそうで喜んでいました。
後々になってボクは静岡で秀才だった娘と結婚するのですが、彼女の妹にホリコシ出身だと言うとギャハハハと大笑いしながらイモコシコーコー!!と無遠慮に笑いころげました。この妹は日本の大学で英文科を卒業してからボクがアメリカに来させて永住権も取ってやり彼女らの母と共に自宅に住ませていたのです。イモコシも大したもんじゃありませんか!!
そしてイモコシでの担任の伊東先生は、挨拶代わりに言いました。
「オレは君たちに勉強しろと押し付けたくはないんだ、オレも勉強嫌いだしなぁ(どよめき笑)だけどなぁ、大学に進学するとか社会に出たら学校の成績で判断されるが 世の中っちゅうもんなんだよなぁ・・だからな、そこんとこをよく考えて後々で後悔しないよう、とだけは今のうちに言っておくぞ・・」
これを聴いてボクは嬉しかったです。伊東先生は体育の先生なので勉強嫌いは当然な気がし、その気持ちをアケスケに生徒に伝えるという正直さに触れて好きになりました。そういう伊東先生だって教師に成れたじゃないのさ、なんて想いました。やがてクラスメイトたちは先生のことを陰では「伊東さん」と呼ぶようになりました。この親しみ心が充満された呼び方にボクも大賛成でした。そして伊東さんは写真部の部長です。キャメラの無いボクに部の機材を貸してくれて 家に持って帰れるようにもしてくれたのです。そして短時間に部長よりも上手くなったボクを高く評価してくれるようになっていました。
こうして放課後の楽しみは撮影と暗室作業という日々が続きます。撮影対象は主に人物、兄の子供たちや先生たち、知り合いなどをモデルとしストロボの日中シンクロや逆光線での露出の実験などなど、写真雑誌に出ている記事などを参考にあらゆる技術を学びます。現像液も色々と試し、部の少ない予算ながら大きな印画紙も少しは購入でき、当時としては贅沢な四つ切りサイズの引き伸ばしも可能でした。もう毎日が興奮と喜びの連続で、自分の脳と四肢が音を立てて成長してゆくような自覚がありました。
やがて夏休みになります。
ここらからイモコシ高校に大事件が始まります。
夏休みには宿題が出ます。ボクは学校で勉強させられるのだから家では自由にしていたいのです。復習も予習も嫌いです。写真では別だけど。
伊東さんは、いくつかの宿題を渡しながら一冊のノートを掲げて言いました。
「皆んななぁ、これは夏休みの日記帳なんだ、コレに毎日好きなことを書いてくれんか。何でもいい、感じたこと想ったこと何でもいいんだ。メシは何食ったなんてのではなく、自分の言いたことを書いてくれんか・・」
これが教育大改革の口火を切ることになるのです。
伊東さんがそう言うなら、信用して思い切りブチまけてやろう、とボクは決めました。実は日記を書くのが大好きだったのです。伊東さんの言う通り、ボクの日記は喜怒哀楽のルツボでした。何か書かないと眠れず、書き終わるとスヤスヤと眠れるようになっていました。書くことがない時は20角ほどの難漢字を辞書から写すようなことをしており、文字を操ることも趣味だったのです。一方では文学を読むのも好きでパールバックの大地を借りて読み通すくらいになっていました。日本人だから国語は大切、労働者になるんだから数学はやらない、そう考えていました。価値観の独自疾走型はすでに始まっていたようです。
「自分で日記を書いているのに、学校用にも書けとは面白くない、だけどまあ書くのは嫌いじゃないから書いてやろう・・」みたいな文から始まり、親愛なる伊東さん宛のメッセイジという気持ちで書き殴ります。
「春に席変えがあった時、僕は後ろの窓際を選びました。外には花が咲き、春風が優しく吹いて気持ちよく、僕は先生の講義を聴いているふりをしながら目を薄くして外を眺めています。小鳥が飛び交うのを見ると羨ましいです。ああ、僕も自由になりたい!!・・自由になって外に行き、たくさんの写真を撮りたい。僕はDPE(現像所)の仕事でも良いから写真の仕事に就きたいのです。だから今は写真をもっともっと撮りたいのです。写真に関係しないことなどは必要になったら習います。だけど今は写真に集中したいのです。音楽や図工は習いたいですが、特に嫌いなのは数3です。方程式も嫌です。僕の兄は医者ですが、社会に出て高等数学など使ったこともないと言いました。では高等数学はもう忘れたの?と聞くと、受験で答案を書いてすぐに忘れたと言っています。医者で役立たないならばカメラマンではもっと無用です。そんな僕に訳のわからない数3を押し付けて写真を奪うというのは本当の教育とは言えないとおもいます。ただ、一芸に秀でることが僕の望みなのです・・」
こういった内容で手を変え品を変えながら毎日書き、鬱憤晴らしできてセイセイした気持ちで伊東さんに提出しました。
そしてしばらくしたら伊東さんに呼ばれます。
永田ぁ、タクマーの200mm買ったんだよぉ!!
わー、200mmとは凄いですねぇ〜!!
ソレを使いこなすの大変だと雑誌に書いてありましたけどどうなんですかぁ?
オマエ貸すから週末に使って月曜日に返してくれよ
タクマーとはペンタックスのレンズで200mmという望遠が出回り始めた頃です。
買ったばかりの200mmを生徒に貸す!!
当時のキャメラやレンズは収入に比べてとても高価、貴重品扱いされており、それを高校のガキに貸すなんて考えにくい時代です。
ペンタックスペンタックス・・ボーエンダヨボーエン
そんなコマーシャルが流れていました。
金持ち仲間のマックンはペンタックスを使っていたのでソレを借りて200mmを装着します。うわー!! 凄いっ!! ピントの範囲が浅く、ボケがキレイで遠近感がなくなり不思議な視覚世界!! 後ろをボカした抒情的な作品ができる・・
ボクは新宿御苑に行きます。あいにくというか良い塩梅というか曇り空。風景を色々と撮り回ります。なっとく行かないままに散策を続けるとベンチがあって女学生が座って本を読んでいるのを発見、これは絵になると直感!! 彼女の邪魔をしないところまで行ってアングルを吟味。ここは そのままで美しいので作為を見せない素直な画面で行こう。ベンチの横部分は品格があるので横からの画面だ。地面に膝をついて素早くピントを合わせてシュート!! 15mほどからのロングショットなので彼女には気付かれなかった。
伊東さんに200mmを返して早速現像する、ネガを見ただけでキレイさが判る。紙焼きを伊東さんに見てもらうと、絶句・・
コレは行けるだろうと感じたボクは、いつも立ち読みで愛読していた「カメラ芸術」に投稿。これが初めての大人世界へのチャレンジでした。そして、佳作で入賞し掲載されたのです。佳作というのは「入賞のビリ」みたいなもの、とはいえ当時のカメラマンたちのセンスは高く、高校生ごときが選ばれるというレヴェルではなかったのです。
ここまで来たか!!・・
伊東さんはシミジミとカメラ芸術を眺めていました。
姉も大喜びしてベートーヴェンの交響曲全集(猛烈に高価)を持ってきて、そろそろコレをマスターしなさいと・・
ただ・・勝男兄貴だけは否定的でした。
「この世界は甘くはないぞ・・オレはグラフィック ディザイナーになりたくて勉強していたんだが、ある時に凄いセンスの奴の作品を見たがために自分の限界を感じて諦めたんだ・・」
母は、兄を戦争から守るために医者になってくれと懇願し、一家の経済のためにも兄は医者になるという決心したという過去があったのです。
やがて秋となり文化祭の準備ということで写真部も教室をもらい部員たちの作品を飾ることとなり、仲間と夜の10時すぎまで暗室で引き伸ばし処理をしていると・・
まぁまぁこんな遅くまで学校に居てはいけないじゃないのぉ!!・・おなか空いたでしょ?ブタマン持ってきたわよぉ〜ん♪・・
なんと、校長の奥さんの副校長でした!!
イモコシと呼ばれる高校のオーナー夫妻、実はこの夫婦は真の教育のあり方を模索して海外でのセッションに参加して朝礼でその様子を熱く語ってくれるという熱血教育者だったのです。礼節を尊び、真剣に考え、日本の教育のあり方に疑問を持ち、その悩みなどをデキンボたちに語ってくれるという人格者夫婦でした。日頃はキリリとしていて生徒に話しかけることはないのに、突如として普通のオバちゃんの口調で暗室に、しかもほっかほかのブタマンを持って・・空腹を忘れて仕事をしていたのに、そのブタマンの美味しかったことは一生忘れません。副校長が来るとは驚きながら、でも文化祭の準備をしている皆んなを回っているのだろうとソレホド気に止めないでいました。
そんな前だったか後だったか記憶が薄いのですが・・ある時に伊東さんがなぜか表情なく、静かな口調で職員室に来るように言いました。
日記爆弾の破裂が告げられる日でした・・・・
おいっ!!
続きを書けなんて、
このトシヨリに対して酷なことコクなよねっ💦
読後感想のコメントが無いちゅうことは内容がオモロクないことだかんなぁ・・
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あの クサレ22口径弾を捨てる前に撃ってみようと想いましてね・・

どのGunで撃とうかと考えたら、こんなイイやつがあったとですよね・・AR-15の練習を安価に行うにはモッテコイの銃です♪
そこでOTSの1-6倍のスコープを搭載したとです。

で、CCIのスティンガーという狩猟用の弾を入手、これでワルモノを退治するのはどうかと・・22LRでも人間の肺に命中すると30分くらいで8になりますからね。
そのココロはシニが8😄
そこで100ヤードから撃ってみたところ集弾性がどうも良くない💦 アイヤー SWのライフルってアカンなぁ💦と想ったけど
念のためにスゴク評判の良い

ミニマグという弾で50mから撃つと

まぁナカナカ悪くない・・けどイマひとつ💦
そこで・・

いつも試合で使ってきたスタンダード ヴェロスィティーで撃つと・・

イーぢゃん😃
では100ヤードで試すと・・

なんだ、CCIでは1番やすい弾が1番当たるのであった😅上に集弾しているワケは、弾が落ちるだろうとターゲットの上のラインを狙ったからですとよ。
じつはね、長いことスティルチャレンジで22口径を撃ってはきたけど18ヤード(ペンジュラムの距離)でゼロをとっていたので遠くを試したことはなかったとですよ・・
もちろん 22口径でもボルトガンみたいな本格的な銃と10倍を越すようなスコープを使えば1インチのグルーピンは出せるハズなんですけど ソコまで追求する意欲はなかので、タイタン君に任すっとよね😅

で、途中で雨がザンザン降ってきたので逃げ帰り☔️続きはイズレやりますからね・・
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怒鳴るど トランプ

ヤレヤレ・・大騒ぎですね💦
トランプが自分が大統領になったら即刻に戦争を終わらせられる・・と常々言っていたので、ボクだったらどうやってソレができるのだろうかと思索をめぐらせていたのですけどね・・方法としてはプーチン政権内部の人にプーチンを殺させること、これだと核戦争にもならないでしょう、けどCIAもソコまでの実行力がないと・・しかしバイデンのようにウクライナをチマチマと支援していても長引くだけ、支援を強化しすぎるとプーチンは核を使うしか選択がなくなり・・となれば取引するしかない。
しかし、プーチンに軍を退かせるにはウクライナが占領されている州の内2洲くらいは渡さないとダメだろうし、その交渉をしようにも余程プーチンに好かれていないと交渉の座に着くことはないだろう。ウマイことにトランプはプーチンやジョンウンとも話せる立場にあるので、ここでプーチンに電話をかけてプーチンの言い分を聞いてウンウン判った、よう解った、こうなったらオレがゼレンスキーを説き伏せてやっから任せてくれんかいね・・と、そう言っといて、オレはプーチンと気が合うぜい!!とミディアの前で吹聴・・この作戦に引っ掛かりかけたプーチンはオレはドナルドと会って話をしたい、と言う現状。
心底ではプーチンを消してしまいたいのが人情というものだけど、敵意を見せると相手は出てこないので、相手に好意を持っているソブリを見せるのが常套手段で・・もちろんプーチンもソレくらいは読んでいるのでスグには交渉には応じない、だからトランプはヴァンスと打ち合わせて公衆の面前でゼレンンスキーをヤクザまがいにイチャモン付けて殴打しホワイトハウスから追い出した、するとロシアはスグに納得のコメントを出した・・これでトランプはようやくプーチンと会えるだろう、こうして、やがて平和条約は締結される・・しかしロシアは約束など守り続ける国ではなく、西側もウソは得意だ。
だからボクは新兵器で勝負をかけたいのよ、それは新種のヴァイラスだがソノ広がり速度は史上最速、なのに症状は軽くスグに治る。しかしある人種がコレに感染すると生殖能力がゼロになるというヤツ。もちろんコレが武器だとは誰も想わない。作るのは日本の「永田火薬」と言う小さな会社だが、細々と花火を作っている零細企業だとマロンパも誰もが観ている。
チャンチャン♪
そんな土曜日、

古屋で汚ったなーい弾を見つけた😓

これなんか500発入りの22口径・・

箱から出すと、まぁまぁキレイだよ

多分15年ばかり忘れ去られ、ネズミに齧られた箱もあるが、弾は喰われてないが白くなってる・・だから捨てないで撃ってみようと考えたら、アル考えが浮かんだのでアル♪
そしてリヴォルヴァが1番好きなステュワートさんが、

こいつを譲ってくれと言う。
オレ好み、なんだそーだ😊
最新の情報として・・

ジュンがドゥローンを習い始めた😳
まずはコンピュータで練習さ・・
あのさ、才能ってどういうもの?・・才能とはね、辞めないでいられるってこと。あきらめないってこと。どんなにツラくてもギブアップしなでいられる、これが才能なんだよジュン・・
と、そう言ってやりました。
そして・・

中部キャリフォニアは
すっかり春めいてきたよ・・
************************* そうそう♪

ワタディザさんが薪用エプロンをくださいましてね😍
すっげぇハイカラな作りなので汚さないようにキヨツケテ使っています😅
🗣️ありがとぉ〜!!!
で、この金曜マッチは亡きガンスミスを偲んで4インチ リヴォルヴァを使う(持ってない人は別)というルールで・・







イーチが4インチといえば、もうこれしかないと・・じつはイロイロあるけどさ😅

あの、M19ですよ




あのねサイプレ先生、KENとは作者のことでガイ ホーグさんの末息子でカナリ才能のある若者で、彼がボクのグリップを作りたいと言うので目の前で指示をしながら半日かかって削って仕上げまでやってもらったのですよ。これは盛り付けも削りも必要なく、そのままで手にシックリと合うので1番気に入っているのです😊
しかし、彼はファミリートラブルを起こしたかでホーグ社を辞めてしまったのです・・



実は、ジョージさんの家が売れましてね😊😭
ここで撃てるのもアト1ヶ月となったのですよ・・・
***************************
↑
タイタンどん、
おまんさぁが こん三脚ばこわんぢゃったら タイタンさぁはただのこっとひん集めでよかぶっただけのぼっけもんじゃっち ほかんしゅがゆうにきまっちょるとよ・・
訳
タイタンどの、
貴方樣が この三脚を買わなかったら タイタン様は普通のアンティック集めで偉いフリしてるだけのヨタローだと他の人々が言うに決まってるのですよ。
とはいえ、まだ一般販売できるほどの量ができてないので、ゲットできたら早速にDSRの足にしようとタクラミカン砂漠で待機しているイチロー
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誕生日の自画像です
31歳・・だったかに渡米し 皿洗いから始まり 日本のGun雑誌で働き アメリカやヨーロップなどのGun雑誌からも仕事がもらえ 潤沢な収入に支えられながら65だったか70だったかで年金生活者となり 5人の子供達を育て 今は2人の高校生も終盤にかかり 若妻もフルタイムの仕事に就き 家族はボクを必要としない状況まで達しています。
今は大好きな射撃にイソシムだけでよいという まさにアメリカン ドリームの完成であります。
上の自画像を見ながら これからは家族にしてやれる事もなく 病気にでもなったら粗大ゴミとなってゆくわけで その前に自決しなければならないと覚悟を固め その方法について真剣に考えておるのです。
ちなみに
ジュンが言うには
拳銃自殺は汚そうでイヤだと😅
生まれるには選択の余地は無い しかし逝く時期は自分で決める、これがボクの生き方なのですよ。
うまいこと心臓麻痺とかで突然死できると嬉しいのですが このツラ見るに どうも病気に見放されておるような気がしてねぇ😅
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で、日本からは様々なブレゼントを頂きましてね♪
中でも嬉しいのは⬇️これっ!!

イーチをコロすにゃテッポは要らぬ、お茶の三日もやらにゃよい、とゆう言い伝えがありましてね(今作った)こんなに集まると嬉しい限りなんですよ😍
みなさん、ありがとう🙏
で、今日はトンデモない物が届きました!!

ちょっとボウゼンとなりましたよ💦

輝ける XTPブレット

スターラインのヤッキョー
フェデラルのプライマー
そして火薬はタイトグループ
もちろん、使うのは

ケニィでありますけどさ😅いやはや年金暮らしの父ではとても買えない金額で、贈ってくれたウィルコックスのジム社長には感謝感激です。
実は去年もらったフャクトリー弾はかなり残っているのです、その理由は大切な試合で使うには精度が足りなく、スティールには少し強すぎるので、弾のスピードは自分で調整したいし、最高な命中精度を出すためにも高価なXTPとスターラインを使いたく・・
でもこの入手難のオリに1万発分ものコンポーネンツを集めるのは困難だろうと期待はしていなかったのですよ。
今のキャリフォニア法では 弾を買う時にバックグラウンド チェックがあり犯罪歴があると買えないのです。クリーンな人でもガンショップのチェック受ける必要があり、郵送では買えないのです。税金もすごく高いです。けどね、ちょいとネバダ州に出かければスグに買えて持ち帰るには州境でのチェックなんて無いので皆さんやってます。
そして、ちょっと射撃に凝った人たちは自分たちでリロードするので火薬もプライマーもブレットも配達便で自由に送ってもらえるのです。政治家たちってホント馬鹿なのでアリガタイですよ😆
世舞事でおます。
今日は寝むたくてしょうが無いでしょうがないでおました。
デイの看護婦さんや施設長に入院を勧められましたが断りました。
明日はデイに参加したいと思います。
今日の総歩数合計は2,798歩でおました🙂↕️
ちょいと前に「俺はキャメラマニアなんかじゃないぞ!」と宣言したばかりですが、欲しいキャメラはいくつかありますデス。
今、一番欲しい(実際に買うレベルで)のは、OM-5。USB端子がC型になったマークⅡが出るそうなので、モデル末期のプライスダウンとかしてくれんかな~? 現行品だけに中古もそんなに安いわけではなく。買うならF4通しの標準ズームキット。
LUMIXは非常に気に入っていますが、OMと2本立てにすれば、日常持ち歩きキャメラはほぼ万全かと。コンパクトで防塵防滴、さらに「もし壊したとしてもギリギリ泣かずに耐えられる」価格というのが条件です。
バトン製グロックをお持ちの方に、少しだけお役立ち情報を。
2番プレート(トリジコン規格)に使用するネジについて、メーカーHPや取扱説明書に誤りがあります。
誤:♯4-32 UNC
正:♯6-32 UNC
バトンさんに問合わせて確認したので、追々訂正のアナウンスが出されると思います・・・多分😄
アクロ変換用にネジを買う必要があったんですが、取説には「#4のUNCインチネジ」という旨しか書いてません。適切な長さのを購入→ありゃ、全然合わんぞ!?
慌ててHPを精査すると「#4-32 UNC」だって。あー、ピッチが違ったか。オイラが買ったのは#4-40だもんね・・・って、待てよ? #4-32なんてあったっけ?
改めて調べ、実際に#6-32で試して解決したのでした😁
インチネジはよくわかりませんね~。
世舞事でおます。
今日はそんなに外出せずにすぐに買い物して帰りましたでおます。
神社に寄って帰り近所のスーパーで買い物をして帰ったでおます。
今日の総歩数合計は7,098歩でしたでおます🙂↕️
世舞事でおます。
今日は俳句と音楽の集いをやっている所に行ってきました。
結構楽しかったですが途中で眠たくなってしまいまして眠気を堪えるのに精一杯でした。
女性の方が2人別に参加されていまして
ものすごい博識な方々でした。
また次も参加したいと思いました。
そして家に帰って思い出したのですが
自分が入っているキャリアの電話の会社に予約を入れていたのですがうっかり忘れてしまっていてすっぽかしてしまっていました。
忘れていたのを謝って再度連絡を入れさせて頂きたいと思います。
今日の総歩数合計は11,595歩でした🙂↕️