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憂鬱なこの頃・・・

更新日:2022年3月18日



理由は ほかでもなく


ウクライナの件ですよ・・・


プーチンが 大量殺戮を行い

核戦争も辞さないという孤独で無謀な独裁者に

アメリカもNATOも手出しはできない


平和だったウクライナの街に砲弾やロケットが

撃ち込まれ 市民は泣き叫んで逃げ惑い

多くの人々が死んだり傷を負ったり・・・


そういう生々しい映像を世界がYouTubeで観る・・・


これがウクライナではなく日本だったら・・

台湾を制圧した中国軍が九州に侵攻し

自衛隊を蹴散らしながら本州に攻め込んできたら

と想像すると自分はいったい何ができるのか・・・


ボクはね 1943年の生まれなんですよ

日米戦争のまっただ中に生まれたのです


姉が教えてくれたのですが

2歳になったころ鹿児島は

アメリカの空襲に遭ったそうです


B29などが「焼夷弾」という火を噴いて人家を焼き尽くす爆弾をばら撒いて父が経営していた本屋は瓦礫となりました


恐ろしいサイレンの音が鳴り響くと人々は頭巾をかぶりながら防空壕に逃げ込んだのだそうです


「退避 退避!!」とみんなで声をかけ合いながら避難をしたそうです


タイヒータイヒー・・

と、ボクも覚えたての言葉で叫びながらチョコチョコと走っていたのだそうです


それを見た姉は 心がとても痛んだそうで 戦争を憎むようになりました


敗戦した後は恐ろしい食糧難となりました

食べ物がないのです

住む家も無いのです

父は仕方なく半壊した家に住み着きました

持ち主が現れたら引っ越すつもりで・・


その家の天井と床には穴がありました

焼夷弾が屋根から床を貫いたのだそうです

不発弾だったので焼けなかったのです


電気はなく 水道も切れていました


その家の持ち主は現れず

2所帯が住み着き 水だけは出るようになり

ボクが小学2年になるまでその家で生活していました


電灯は点かないので皿に油を入れてコヨリを浸し

それに火を点けてローソク代わりにしていました


いつもいつも毎日毎日が空腹でした


父は川でウナギを獲って闇市で売るようになり

日銭で米などを買い 灯台のあたりで木切れを拾って炊飯をして暮らしました


おじいさんは

故郷の屋久島でカツオを獲り

鰹節を作って本土に売るという仕事をして財を成し 父は裕福に育ち 勉学が好きだったので西郷さんが育った鍛治屋町という町で本屋を開いていたのです


そんな豊かな永田家は戦争で全てを失ったのです 今のウクナイナの人々のようにね・・・


そんなある日のこと

ど貧乏一家となって空き家の住民となりながら物心のついたボクは 周囲の子供たちからイジメを受けました

7歳くらいだったと想います


8人ほどの子供たちに帰り道を塞がれたのです


走って引き返そうと考えたのですが どうせ待ち伏せされるだろうと想いました


気がつくとボクは群に向かって突進していました

すると小さい子達は悲鳴をあげて道を開け 大柄なボスまで避けたのです


強い者に負けるな

弱い者は守ってやれ


こういう教えで育っていたので

闘争本能が芽生えていたのでしょうね


命を懸けて戦え!!

そんな気持ちがインプットされた事件でした


その後はイジメっ子たちに受け入れられ楽しく遊ぶようになりました・・


・・・・・・・・・・・・

ニラ玉の季節が来ました♪

暖かくなったと思ったら畑のニラがどわどわと育っていて、その柔らかくておいしいことったらもう☺️

これよりおいしいものは世の中にはないと言う気がしてしまいますよ😚


あ😥…写真では美味しそうでないね😅

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